昔、何で読んだ記事だったか、ある研究によると人は事物を写真に撮った方がそれを忘れやすくなるらしい。

写真に記録されているという安心感から記憶しておく必要性を脳が薄く判断するとのことだ。

その記事では「きっちり思い出に残しておきたいならカメラはむしろ置いていくべきかもしれない」といった調子で説かれていたのだが、しかしカメラを自己の一部と捉えてしまう考え方はある筈ではないだろうか。

テクノロジーにより自己を拡張することが常識になったのならば、カメラを取り上げられた人は手足をもがれた人と同じであり、不具者に不具者と言ったところでなんの意味があるか。むしろこの研究成果はカメラに脳の記憶機能をきっちり「移譲」することができたという、テクノロジーの勝利の証左と呼んで良いと思う。

若者のスマホ依存を嘆く声というものが近年よくあるが、スマホは一部の若者たちにとっておよそ自己の一部である。両手両足や目鼻口の存在に依存しているような人間がなぜスマホへの依存を非難できるのだろう。「数ある機器の中でもスマホにだけは依存しない方がいい」のような形の批判ならまだ筋が通るが、新たなモノやデバイスへの依存一般を非難する具体としてそのような言及をするのならばそれは諦めた方が良い。

そもそも遍く生命の細胞内に蠢くミトコンドリアも原始生命が別種の生命を体内に取り込んだものだという。新たなモノへの依存は自己の拡張と表裏一体であり、それは即ち良いにしろ悪いにしろ進化なのではないだろうか。そしてそれは数十億年の昔から行われてきたことなのである。