Twitterが精神に与えた影響

Posted in: by きてらい 2020年10月16日 | Tags:

6年間やった結果、自分はあそこにいるべきではないという結論に達した。

自分は今この記事の序文を書いている。しかし気持ちが収まらない。今すぐにでも話の要点を、キャッチーで強い言葉でこの辺に書きたくなっている。しかし元来自分はそういう志向ではなかった。自分はお世辞にも文が上手い人間ではないが、最低限の論理的構造自体は組み立てながら物を書くことを志していた。

これがまさにTwitterの与えた影響の一だ。思考が140字に切り詰められている。Twitterに最適化された文章構成法だ。ふらふらと何の意識もせず書いた上の段落を文字数カウントにでもかけてみろ!142字、ニアミスじゃないか!この段落だって、きっと、ほら!

真面目な話、気付かないうちに自分は長い文章がそのまま頭に入りにくくなっているんじゃないのか。あるいは、書けなくなっているんじゃないのか。最近よくがんばって活字の本を読んでいる。しかし、たびたびすっと頭に入らないことがある。書き言葉の方はきっともっと深刻だろう。いまこうして記事を書いていて、全く筆が捗らない。文書の全体的な論理構成というものは組めても、それを長文にする能力が衰えている。常に百数十字で分割された何かを脳が勝手に作り出しているのだ。

第二に、インプレッションに対する欲求が肥大した。あえて「承認欲求」と表現せずに言う。「インプレッションに対する欲求」が肥大した。

自分の承認欲求(多分自己実現欲求も混じっている)はおそらく強めな方だ。これはきっとSNSとは関係なく元来の心根だ。それだからこんな自己主張用のサイトを作ってそこで色々やっている。そうして、独自路線をやっている限り、自分の欲求と達成感は周囲と干渉することなく「自分がどんな面白いことができたか」に依存してくれる。

しかしSNSをやっていると、他人からの「いいね」が欲しくなる。自分にもこんな感情がしっかり根を張るとは驚きだった。初めのころはほとんどそういった反応など無いものだから、気兼ねなかった。しかしちょいちょい反応が来るようになってくると、それを期待している自分をそこに発見する。そして恐ろしくなる。何が恐ろしいかといって、自分の、自己実現欲求が、「いいね」という特定の会社の特定の枠組みに依存した自己実現とは程遠いレールに乗っていくのだ。また、「いいね」を投げる人間の交換可能性に気付いて、人間が物の数になっていくのだ。恐ろしくなっていいねとRT数とFF数を非表示にするプラグインを作った。しかし通知は消えないので、設定で出来る最大のシャットアウト設定としてFF以外からの通知を消した。しかしFFの優しい人は良くいいねをくれたので通知がついた。ありがとうございます。そしてFF外の優しい人からの返信を自分は気付かず無視していた。自己嫌悪になった。もう限界だと思った。

第三に、インターネット上に放出したものを消して憚らなくなってしまった。

自分のインターネットへの書き込みの原点は多分、フリーゲームの集積サイトの各ゲームのページの片隅に設置された小さな掲示板だったと思う。激突要塞の掲示板でわやわやしていたのが最も古い記憶だ。その後2chにも足を踏み入れた。2chは基本的に全てを残すスタイルの匿名掲示板だ。最初に触れたものがそういう類であったから、自分には「インターネットに出たものは基本的に消えないし、消せないべきだし、残すべきである」というある種の倫理観に近いようなものがあった。しかし、Twitterではいとも簡単に過去の呟きが消せるし、容易に掘り出せないから大量のツイートで押し流すことさえできてしまう。あまりにも対照的なその環境は自分の倫理観を大いに揺らがせた。ネガティブな感情をツイートして後で嫌になって消す、といったことを普通にするようになってしまった。インターネットに出たものは消えないということがある種幻想だと肌で理解してしまった。

別段どっちの世界が正しいというものではない。そもそもそれはきっとこれから確立されていく部分なのだろう。しかし、「私たちは過去を消してもいい。私たちには忘れられる権利がある」というSNSの悪徳と「私たちは匿名である。掲示板上の全てのことは現実の自分とは切り離された何かである」という匿名掲示板の悪徳、そこに承認欲求が合わさるとあまりにも酷い訳の分からない怪物になる。それはきっと避けなければならないし、なってしまったら気付き次第自省しなくてはならない。自分はなっていた、あるいはなりかけていたんじゃないかと思う。それはあまりにも恐ろしいことだ。

過去を消すことの弊害とは、自分がどこからやってきたか分からなくなることだ。自分の生きている文脈が、物語が良く分からなくなるのだ。アイデンティティとは自己認識と他者からの認識の総体であるという。自他の境界線はそれほど強度の高いものとは限らない。Twitterは誰でも見れる公開日記サービスである。自分は友達がさして多くない。年単位で近況を報告し合っているような友人などゼロである。早い話が、自分は自分史を、Twitterに依存していた。それを編集したら、終わりだ。既に、終わっていた。

自分はTwitterをやっていてこういう変化がおきた。こういった変化が望ましいとは自分には到底思えなかったから、穴倉のような個人サイトに改めて籠り直したくなった。

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